住まいは社会保障の基盤(公明新聞2020年3月23日付)

全世代型社会保障について公明党が現在「住まい」を社会保障の柱と位置付けて検討を進めている、という記事が23日付公明新聞に掲載されました。

「『衣食足りて礼節を知る』というが、その前に屋根が必要だ」。福祉の出発点としての住まいの課題を、僕も初当選以来、市議会の場でずっと主張してきました。

最終提言の取りまとめに大いに期待しています。

「誰も置き去りにしない社会保障」井手英策・慶應義塾大学教授(公明新聞2020年2月29日付土曜特集)

今日の公明新聞4面「土曜特集」に、慶應義塾大学経済学部・井手英策教授のインタビュー記事が掲載されました。SDGsの基本理念『誰も置き去りにしない』を強く進める公明党として、社会保険政策をどう再構築していくのかを考える記事となっています。

…おっと、ここまでで「ちょっと難しいかな」なんて読み飛ばそう、と思ったあなた!そんなこと言わずに、このインタビューに目を通してみてください。

今、このSDGsで『誰も置き去りにしない』と掲げているのは、そう、裏を返せば置き去りにされている人たちがいるから。その呪縛が「自己責任」です。

もちろん、自分のことに責任を持つという姿勢は間違っていない。

しかし!

今の日常で「自己責任」という言葉が使われるとき、それが”他者の不幸”に向けられていることが少なくないのではないでしょうか。

事故、病気、失業・・・いつ自分の身に起こるか分からないことであるはずなのに「自己責任」のもと、自助努力を強いられているのが現実。その社会を「税」という処方箋で変えていこうというのが、「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会保障という井手先生の理論です。

品位ある「生命の保障」――まさにその社会を実現するのが公明党の使命だと思っています。

もう一度言います…是非ご一読を!

 

公明党が目指す「新たな社会保障」

先日15日・16日の両日に渡り、公明新聞で「2040年問題 新たな社会保障への一考察」という論考が掲載されました。

 

およそ20年後の「2040年」とはどんな時代でしょうか。

 

中央大学の宮本太郎教授は、「日本がこれまで対処を怠ってきた二つの不均衡が極限に達する年である」と指摘しています。

https://www.jcer.or.jp/blog/miyamototaro20181017.html

 

こうした危機感のもと、『低経済成長の超高齢社会」を前提にしたうえで、誰も取りこぼさないための福祉政策のあり方を考えたのが今回の提言です。

 

「大衆福祉」こそ、1964年11月17日に結党し今年で55周年を迎えた公明党の原点です。

 

今回発表された考察では、公明党が目指すのは「最大多数の最大幸福」ではなく「全民衆の最大幸福」であり、『「個人の幸福」と「社会の繁栄」の一致を志向』し、『各人が思い描く幸福を最大限に追求できる社会こそ、公明党がめざす大衆福祉社会』であると述べ、そのために我が国に立ちはだかる「二つの大きな“山”」をどう乗り越えるかを模索しています。

 

これから日本社会が迎える二つの大きな山とはなにか。1つ目は、団塊の世代が75歳以上(後期高齢者)になる2025年。2つ目が、高齢者人口がピークとなる2040年です。

 

私もいわゆる団塊ジュニアと言われる世代で、2040年には69歳になります。この団塊ジュニア世代という現在の日本で一番人口の多い層が、この頃に70歳前後となり、老後の「支えられる側」になっているわけです。

 

そうした現実を踏まえたとき、考察では我が国の『従来の「支える側」と「支えられる側」という二分法を前提とした社会保障制度の限界』にきていると指摘。そのために、超高齢社会を見据えた社会保障改革を行っていく必要性を論じています。

 

小論ではそのための視点として

①真に支援が必要な「弱者」の把握

②「分断・格差」「孤立・孤独」の防止

③「個人」に軸足を置いた制度設計

の3つを反映させた政策が必要だとしています。

 

今回の論考で、私が注目するのは『「個人」に軸足を置いた制度設計』について、『社会保障を世帯単位から個人単位にしなければならない」としている点です。「弱者の明確化」を考え合わせたとき、これは必然的に税制の世帯単位から個人単位への転換も示すことになります。

 

さらに「適切な再分配こそ成長を促すカギだ」と論をすすめ、そのために「40年の日本社会を念頭に置いた分配重視の税体系の構築」の必要性を主張していることは重要な点です。

 

そのような税のあり方、そして「分断をつくらないため」の社会保障のあり方を考察した最後に、慶應義塾大学の井手英策教授の論に言及しています

 

ここでは井手教授の考えについて、こう述べています。

 

(井手英策教授の)『提言の根底には、救うべき弱者を特定した社会保障だと、他の層との”分断線”が引かれ、社会的な亀裂を生じさせるという問題意識がある。分断をつくらないために、全員に等しくサービスを提供するという発想で、本稿で触れた「弱者の明確化」とは方向性が異なるが、重要な選択肢として検討に値しよう。』

 

今回の考察は『公明党が取り組むべき課題について言及』するというもので、今後の政策を考えていくにあたっての叩き台という位置づけになるものだと思います。

 

そこにこれまでの主張と「方向性が異なる」としながらも、井手教授の提言を「重要な選択肢」として示したことは、公明党として「税と社会保障」を考える上での大きな転換点だと考えています。

「分断」をとめるための選挙制度改革を

私の座右の銘は「結合は善」。
いつもは表に出していないが、これには対称となる続きがある。
それは「分断は悪」という言葉だ。

我が国で「格差」についての新聞記事が増えだしたのは平成17(2005)年頃からとされる(参考)。
それが後に社会の「分断」へと繋がっていったのが平成という時代の日本の姿だろう。

今月、新たな元号「令和」を迎えた。
新しい時代として、政治は何をやらなければならないか。
それはまさに「分断」をとめることだ。

 

これまでの「平成」における、政治の一番大きな変化は小選挙区制の導入であろう。
平成6(1994)年の公職選挙法改正によって衆議院議員総選挙での小選挙区比例代表並立制が導入され、平成8(1996)年の総選挙で初めて実施された。

私は平成の時代に拡大してしまった分断の、大きな原因の一つはこの小選挙区制度にあったと考えている。

多くの人が指摘していることではあるが、小選挙区制度によって決定される各党の議席数は、実際の投票率とは大きくかけ離れるということが起こる。そのために政権交代が起きやすいことで、与野党で切磋琢磨し、緊張感をもつことで政治家と政策が磨かれ向上していくことを期待されたのが小選挙区制度であった。しかし現実にはそうならないばかりか、民意を反映できない制度となってしまっている。

小選挙区の票数では比べるのが難しいので、分かりやすく比例代表の投票率で見てみるが、たとえば前回平成29(2017)年の衆議院議員総選挙での比例代表の投票率で議席数を配分すると次のような結果となる。(カッコは小選挙区を含んだ実際の獲得議席)

自由民主党 155(284)+129
立憲民主党 92(55)-37
希望の党 81(50)-31
公明党 58(29)-29
日本共産党 37(12)-25
社会民主党 8(2)-6
日本のこころ 1(0)-1
その他 5(22)+17

自由民主党の比例票獲得率は33.3%だが、全獲得議席は61.1%となった。また、野党第一党となった立憲民主党も、比例票獲得率は19.9%だが、実際の獲得議席率は11.8%と半減する結果だ。(ちなみに比例票獲得率の結果だけで示せば、与党である自由民主党と公明党が獲得した比例票は、全体の45.8%となり過半数ではないことも分かる。)比例票のみを民意を仮定した場合には、実際の議席割合と大きく離れてことが分かる。

慶應義塾大学法学部の小林良彰教授によれば、有権者が今の政治にどの程度満足しているかの調査では、『「かなり満足している」者は1%しかおらず、「やや満足している」の11%を足しても12%に過ぎない。一方、「かなり不満である」者が28%おり、「やや不満である」の26%を足すと54%と半数以上が政治に不満を抱いていることが分かる』との結果を示しているという。そして『その背景には、有権者の民意が正しく国会に反映されず、有権者が望むことが政治で行われず、望まないことが行われることがある。その原因は、何と言っても衆議院選挙における各政党に投じた有権者の民意(各党得票率)と結果(各党議席率)の間に大きな乖離が生じていることにある』と述べている。(「公明」161号(2019年5月号))

既存の政治に不満を募らせ失望した有権者が、より極端な主張をする政治に期待を向ける。そうしたポピュリストと言われる政治家の多くは、敵をつくることで自らの正当性を主張するという手法をとるが、それによって同調する有権者も排外主義へ進んでいってしまう。そんな構図が欧米の民主主義先進国と言われる国々で発生しているし、我が国でもそういった様相がいくつも見られる。

現行の小選挙区制度は、そうした有権者の不満と失望を解消し、民意を政治に反映できる制度ではないのは明らかだ。
「分断」を終わらせるための方法の一つとして、選挙制度はもう一度改革が必要な時期にきている。

 

(参考)日本社会における格差の広がりとその対策
http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~tetsuta/jeps/no4/Kuramitsu.pdf

「基金」についての不毛な議論に終止符!

立川市議会として毎年行なっている議員研修会が本日開催されました。

今回の研修会は「予算」をテーマに、講師に関西学院大学教授の小西砂千夫先生をお招きしました。

研修会では冒頭、これまで様々な地方自治体の財政を分析してきた小西教授から、立川市は「極めて特殊な財政状況」であることが述べられました。

その特殊な状況とは「極めて恵まれている(財政が良好である)こと」。なかでも起債(市債を発行してお金を調達すること。つまり借金)できる余地もまだまだ残されている立川市の財政は「ほとんど現金主義会計に近い」とも言及されました。(さらにそういった財政状況であるので、立川市での今後の大きな課題である公共施設の更新についても「起債で前倒しして行っても問題ないと考える」との考えを示されました。)

小西教授は現在の地方財政について「東京都の一人勝ち」としたうえで、立川市も含め東京都が反対をしている国による都財源の地方移譲(東京都では「召し上げ」とも形容している)については賛成の立場をとっているそうです。

その理由は、本当に切羽詰まった地方財政を見てきたことによると言います。

市民が利用する一階のフロアのみ照明がつき、二階以上は電気がつけられずに、パソコンディスプレイの明かりを頼りに仕事をしなければならないような役所がある現実を目の当たりにしたとき、そういったところに財源として分配するのはやむを得ないという考えを持つに至ったとのことでした。

とくに平成20(2008)年に起きたリーマン・ショックでは、全国の自治体が財政的に大きな影響を受けました。

以降、地方自治体はいざというときの財政に備えるための基金(つまり貯金。特定の使いみちを決めていない財政調整基金という貯金)を積み立ててきており、全国的には規模の小さい自治体ほど多く基金を積んでいる、という傾向があります。そのなかで立川市は、リーマン・ショック以前からこの財政調整基金を着実に積み立ててきており、その額は標準財政需要額(自治体規模ごとの標準的な支出額)の20%という独自の目標を達成している状況です。

一方で、この基金というのは貯めればいいというものでもありません。

税金というのは、簡単に言えば、みんなでお金を出し合って生活をよくしていくために使いましょう、というもの。

それを貯める=使わないということであり、お金を出した市民がその利益をその時点では受けられない、ということになります。5年後に立てる市民会館のためにお金をためる、ということであれば、とりあえず5年待てば利益をうけられます。しかし、いざという時の貯金ということは、言い換えればいつ使われることになるかわからない。もしかしたら、自分が生きている間に使われないかもしれません。

ですから、基金を積むというのは、納税者(=市民)に対してしっかりした説明が必要です。

しかし、この説明が難しい。なぜなら、どれくらい貯金があれば安心であるのか、という基準がどこにもないからです。

さきほど立川市の財政調整基金は、標準財政規模の20%を目標にしてきた、と書きました。これは財政において、基金の必要額として示される一つの基準です。ですが、なぜ20%なのか。実はこのことについては、誰も考えを示していません。財務省も総務相も。立川市も当然これまで示してきませんでした。

私はこれまで、議会で「基金を積む以上はその根拠を示すべきだ」ということを行政に再三求めてきましたし、私なりの考えも示してきました。

一方では、行政がその考えや根拠を示してこなかったが故に、議会では一部から「そんなに貯めるのではなくて、もっと今の市民サービスのために使うべきだ」という意見も主張されてきました。

「貯めるべきだ」「いや、使うべきだ」。そこに根拠がない以上、ここは言う側の考え、さらに言えば感情にしかならず、この基金の基準については、これまで不毛なやりとりが議会で続けられてきました。

基準が示されてはじめて、その基準に対しての適正性の議論ができる。生産性のない議論はやめにしたい、という思いで、この基金の基準についての考えを、これまでも私なりに示してきたわけです。

今回お招きした小西教授は、そうした地方会計について見識が深く、さらに新著(「自治体財政の知恵袋―議会答弁や住民説明に役立つ」(ぎょうせい刊))では持論として、財政調整基金は標準財政規模の20%は必要で、さらに不交付団体はそれ以上の積み立てが望ましい、ということを書いております。そこでこの論争に終止符を打つべく!今回の研修会で、小西教授にこのことについて質問しました。

「財政調整基金の必要額を標準財政規模の20%としてる根拠について教えてください」。小西教授の答えですが、結論的には20%の根拠について、いわゆる経験値、体感的なものであるということでした。

そのうえで、不交付団体というのは、交付税が入ってこないということでは財政的に自立しなくてはいけない、ということであるが、一方で良い面もある、とも述べられました。なぜなら、歳入(収入)の予測ができるから、ということです。

もちろん、国から交付税が入ってくる交付団体である自治体も、次の年の歳入を予定して予算を組みます。

しかし昨今、国の財政の方向性として交付税をあてにできなくなってきている現状があるのも事実で、交付税に頼った自治体運営はますます難しくなってくるはずだと言います。

一方で立川市では、そうした国からの交付税を計算に入れない分、将来予測がしやすい、ということでした。

立川市の人口が来年あるいは数年で大幅に増加する、ということはないわけで、つまり景気予測で法人(企業)と市民からの税収がある程度予測できることになります。(実際には税体系が変わることで収支に大きく影響することがあり、予測も簡単ではないのですが、この場合はざっくり言うとという話です。)

そうしたなかで、経済の大きな落ち込みにたいしても減収予想から必要な基金の割り出しができるのはないか、ということでした。

ここでわたしはこれまで懸念してきた疑問をぶつけました。

それは災害時の固定資産評価についてです。

立川断層が実際にあるかどうかわからないが、たとえば立川市が震源になるような大規模な災害があったときには、固定資産評価は大きく下がることが予想される。それは市の固定資産税収入に大きく反映していくことになるだろう。では、それに対応するような基金というのは、どれくらいの規模と考えるか。

これについて小西教授は、少し考えたあとに言われました。

「それに対応する基金を積むのは無理だ。」

そのような事態になれば、立川市も不交付団体ではいられず交付団体になってしまうと思いますし、一時的だとしてもそのときは国から災害復興などのお金が入ってくるはずです。しかし、それもどのくらいかは計算が難しい。

つまり、いざというときの基金規模にも限度がある、とのことでした。

大災害では、基金も焼け石に水かもしれない。そう考えれば、大災害に対応するものでなく、あくまでも経済的な急変に対応できる規模、というのが基金の役割ということになるでしょう。

そしてその基金の必要額は、専門家の経験をもとに算出して「標準財政規模の20%(+α)」ということです。

立川市がその額に達していることを考えれば、現状は適正であり、財政調整基金の積み増しはいったん終了でいいでしょう。

そしてこれまでの不毛な議論も、これで終了できるのではないでしょうか。

国はスルガ銀行と同じことをやっているのではないか

スルガ銀行の不適切融資が大きな問題になっています。今年1月のシェアハウス運営会社に対する融資打ち切りが発端となり露呈したこの問題に対して、今月7日、第三者委員会が調査報告書を公表しました。報告書では融資関係資料の偽装など、同行を巡る組織的な問題が多数指摘されています。

その問題点の一つとして、スルガ銀行が債務者に対してローンの繰上返済を防止していたことが記されています。

住宅ローンを借りている方などはご存知だと思いますが、ローンの繰上返済とは元々の借入期間で支払う予定の利息を、借入期間を短縮することで利息の支払いを少なくすることです。それによって、支払総額も少なくできます。

しかしスルガ銀行では、繰上返済されると貸出残高が減る(=営業成績が下がる)ことと利息総額が少なくなる(=収入が減る)ことから、この繰上返済をしないことを融資先に幾重にも求めていたということです。

金融機関とは民間であっても極めて公的に近い役割を担うものです。これを一行の問題であると看過してしまうことはできませんが、しかしここで述べたいのは銀行の役割ではありません。

この繰上返済を防止する行為。じつは国が同じことをやっていることは、あまり知られていないかもしれません。国は地方自治体が借金を早く返すことを、事実上止めているという現実があるのです。

平成28年度現在、地方自治体の普通会計における地方債残高は144兆9,087億円(総務省 平成30年度版「地方財政の状況」の概要)と莫大な額に上ります。(ちなみに同28年度の普通国債残高は830兆5,733億円(財務省 最近20年間の各年度末の国債残高の推移)。)

そのうち立川市では、市債残高は平成29年度末で264億7,330万9,136円(一般会計・元金のみ)。市民(182,954人・平成29年度末)一人当たり145,000円程、一家4人家族だとすれば580,000円もの借り入れをしている計算になります。

少子高齢社会で社会保障費が年々増加することが我が国最大の課題です。どう財源を捻出するかとともに、次の世代にツケを残さないためにどうしたらいいか。これが政治命題の一つでもあります。ですから、そのためには借金を減らすことが重要です。ところが、先ほど述べたように、国はこれを妨げている事実があります。

財務省のサイトに「財政融資資金からの借入金を繰上償還することは可能ですか」というページがあります。少し言葉が難しいですが、簡単に言うと国からの借金を繰上返済できますか?ということについて書かれています。

そしてその答えが、次のとおりです。

繰上償還(前倒し返済)を行う場合、貸し手は、本来、繰上償還以後も受け取り続けられるはずであった利息収入を失うことになる一方で、借り手から繰上償還を受けた資金を元手に新たに貸付けを行って利息収入を得ることが可能です。結局、貸し手にとって、失った利息収入と、新たに得られる利息収入の差額が繰上償還に伴って生じる損失となります。

財政融資資金の貸付けは収支相償うよう運営されていることから、このような繰上償還に伴って生じる損失をそのまま受け入れることは出来ません。したがって、繰上償還に応じる場合には、繰上償還に伴って生じる損失に対応する補償金の支払いが前提となります。

<財務省>財政融資資金からの借入金を繰上償還することは可能ですか

つまり繰上返済されると受け取る予定の利息が受け取れなくなるから、返してもいいけど減る分を補償金として払ってね、ということです。

市債の借入先は財政融資資金だけではありません。様々なところを借入先として市債を発行しています。ですが、どこも概ねこの財政融資の繰上償還の考え方にならっているようです。

これは先のスルガ銀行の繰上返済防止と同じではないでしょうか?

住宅ローンでの繰上返済でも手数料を取ることはあります。しかし現在では、全額繰上返済でもWEB経由であれば手数料無料のところが多くなってきました。

ところが、市債という借金の返済にあたっては補償金が必要なことで、繰上返済のメリットがほぼなくなってしまうのが実情です。

今回の立川市議会決算特別委員会で平成29年度の審議を行うにあたり、繰上償還した場合と、繰上償還せずに償還期間で返済した場合の違いについて、財政課に事例を出してもらいました。

1億円を2029年3月20日返済期限で年率2%で借りている市債があります。これを2017年3月20日に全額を繰上返済した場合の試算です。

返済時には補償金として1千149万円が必要となり、あと12年間借り続ける場合と、繰上返済(繰上償還)した場合で支払総額は約150万円しか変わりません。

実際にはこの事例よりも利率が低いものも少なくないので、繰上償還した場合のメリットはもっと低いはずですし、29年度決算の剰余金が約53億円だということを考えれば、そのうち返済に10億円充てられたとしても、1,500万円程度のメリットです。これが多いか少ないかは判断によると思いますが、いずれにせよ、補償金を支払うことによって返済の効果は著しく低くなります。

これまで国は、財政力の低い自治体に限っては補償金なしでの返済を認めてきました。

しかし、それ以外の自治体では返済を認めない一方で、近年は基金という貯金の積み増しを問題視し始めています。

・税収増を背景に、東京都の自治体の基金増が顕著となっている。いずれにしても、基金積立残高21兆円というのは、新たな埋蔵金と言われかねない状況では ないか。必要なものはしっかりと支出し、必要のないものは効率化する。顕著に増加している自治体については、実態と背景を分析し、自治体が説明責任を果たすよう促すとともに、国・地方を通じた地方財政計画への反映等の改善方策を講じるべきではないか。(平成29年第7回経済財政諮問会議(2017年5月11日))

・地方交付税で財政移転を行っている中で、自治体の基金積立残高が21兆円にも達しているのは、地方では使い切れない財源が積み上がっているからではないか、そういった印象を受ける。基金が積み上がっていることについて、自治体がきちんと説明責任を果たすことが必要である。それをしなければ、地方税を納める企業、あるいは住民の理解は得られないのではないか。(平成29年第7回経済財政諮問会議(2017年5月11日))

負債(借金)があるなら、それを返済できるように資産(貯金)を持たなければバランスがとれません。

国が地方自治体の基金を問題とするなら、積極的に負債の返済を認めるべきではないでしょうか。

本年4月24日に行われた経済財政諮問会議でも、つぎのような発言がありました。

・地方公共団体の基金に関して、いまだにあまり納得していない。・・・平成28年度末時点での基金総額は、約22兆円であり・・・これが国に戻ると、プライマリーバランスの比率が2%変わるほど、大きな金額である。また、財政調整基金については景気変動に対応するものであるはずなのに、リーマン・ショック後の地方財政減収時にも増え続けているのはおかしい。今のような景気が良いときにこそ地方債の返済を進めるべきではないか。(平成30年第5回経済財政諮問会議(2018年4月24日))

「地方債の返済を進める」ために、国は今の補償金制度を改める必要があると考えます。

 

 

『健康で文化的な最低限度の生活』

「健康で文化的な最低限度の生活」

憲法第25条を冠したドラマが放映されています。私も”火曜夜9時”という時間帯にテレビの前にいるのはなかなか難しいのですが、録画しながら観ています。

ご覧になられている方の多くは、主人公である義経えみる(吉岡里帆)の活躍を応援する一方で、その上司である係長の京極大輝(田中圭)の冷酷さに腹立たしい思いを感じるのではないでしょうか。

私も日頃から市役所職員の対応に対して「融通がきかない」という声を聞くことがありますが、まさにドラマでの京極係長はその典型。決められたことに則って私情を挟まずに業務を遂行していきます。

ですが公務員の立場としては、この京極係長の態度が正解です。

決められたことを間違いなく遂行するのが、公務員の仕事です。制度がどれだけ理不尽であろうと、決定されたことであれば、それに従うことが公務員の立場です。それぞれの考えで融通をきかせてしまえば、制度が崩壊してしまいます。

制度を実行して、その結果が理不尽であれば、責めるべきは政治であり行政ではありません。それは認識してほしいと思います。

そうであるからこそ、その制度を市民、国民の生活の現実に即したものに変えていくのが、政治のもっとも重要な役割であり、使命です。

 

生活保護をテーマにしたドラマが放映されることは、その実態について理解が深まることを期待する一方で、このようなテーマがゴールデンタイムのドラマに選ばれることに、私は複雑な思いを感じています。

特に第2話から3話に繋がる、生活保護世帯の子どもがミュージシャンを夢見ながらもアルバイトで稼いだ収入が不正受給とされてしまう件については、私自身がプロミュージシャンを目指していたこともあって、身につまされました。

ドラマでも言及されているように、子どものアルバイト収入も、事前に申告していれば収入認定・・・つまり生活保護費から返還しなくてもいいという制度もあります。ですが、基本的には生活保護を受けている家庭で、何らかの収入があったときには、その分は生活保護費から削られます。このことが就労意欲を削ぐことに繋がっていることも事実だと思います。

私はベーシック・インカムの考え方を強く支持していますが、現実的には財源の問題を乗り越えることが大変難しい。

ですから、私は生活保護制度をベーシック・インカムに近づけていくことが現実的ではないかと考えています。

まずは親戚に対する扶養照会をやめること。これが生活保護申請を大きく妨げていることは間違いありません。この制度を廃止して、必要な方が生活保護にアクセスする壁をなくすことです。

生活保護世帯のエアコン購入費用支給要件拡大を

先日7月23日、気象庁が臨時会見を開き、今夏の猛暑について「命の危険がある暑さ。一つの災害と認識している。」との見解を示しました。

全国各地で記録的な猛暑が続いている。日本列島の広い範囲で高気圧に覆われた23日、東京都青梅市や埼玉県熊谷市など各地で40度超を観測。気象庁によると、関東甲信や東海、近畿などで7月中旬の平均気温は統計開始の1961年以来、最も暑くなった。今夏、世界各地も異常な高温に見舞われている。

「命の危険がある暑さ。一つの災害と認識している。気温の高い状態は8月上旬にかけて続く見込み」。今年1番の暑さとなった23日午後5時。臨時記者会見した気象庁気候情報課の竹川元章予報官は、今後の猛暑の見通しを予想した。暑さのピークが9月上旬までに複数回ある可能性もあるという。(日本経済新聞7/23付)

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3329191023072018EA1000/

これに先立ち、厚生労働省が6月27日付で『「生活保護法による保護の実施要領について」の一部改正について(通知)』という局長通知を出しました。
http://665257b062be733.lolipop.jp/18072602.pdf

内容は「熱中症予防が特に必要とされる者がいる場合」に、エアコンの購入費用が50,000円を上限にできるようになったというもの。これまで生活保護として認められていなかったエアコンが”健康で文化的な最低限度の生活”には不可欠であるという厚労省の判断は、現状に大きく踏み込んだものとして評価したいと思います。

ところがこれも限定されており、今年の4月以降に生活保護を受給し始めた世帯が対象となっています。つまり同じこの猛暑のなかでも、3月以前から生活保護を受給していた世帯は対象ではありません。近年は高齢者で生活保護申請に至る方が少なくないなか、これは制度の大きな穴といっても過言ではないと考えます。

「命の危険がある暑さ」です。必要な世帯には受給期間に関係なくエアコンを設置できるよう、国は生活保護の実施要領を再度、早急に改正すべきです。

【追記】

この件に関して、公明党としてもさっそく動きがありました。

公明党厚生労働部会が8月7日、加藤勝信厚労相に2019年度予算の概算要求に向けた重点政策提言の申し入れをしました。そのなかで、働き方改革推進支援センターの強化や受動喫煙を防ぐ喫煙室の整備助成、児童虐待の防止策を進める市区町村の子ども家庭総合支援拠点の設置促進、認知症施策の充実とともに、『「真に必要な者が冷房器具を購入できるよう万全の対応を検討すること」として、昨年度以前からの受給世帯にも対象を広げるよう求め』(静岡新聞アットエス8月7日付)ています。

 

民主主義とは?選挙とは?

本日1月8日、立川市でも成人の日「成人を祝うつどい」が行われました。

成人になると様々な義務とともに権利をもつことになりますが、そのうちの一つ「選挙権」についてこれまで成人を機に啓発活動がされてきました。
ご存知の通り、昨年6月18日から18才選挙権が施行(実施)されましたので、今回成人式を迎えた人たちは今日を待たずに選挙権がありました。ですが啓発ということで今回も成人式の会場で「選挙のススメ」という冊子が配布されました。
今回の冊子もとても分かり易いので、何のために選挙に行くのか、ということはそれを読んでもらってもいいのですが、せっかくなので「選挙とは」「民主主義とは」ということについて私なりに考えてみたいと思います。

まずは「民主主義」ということを考えるにあたり、「国とは何のためにあるのか」というところから始めたいと思います。

国、国家とはどのような存在なのでしょうか。
「職業としての政治」を書いたマックス・ウェーバーによれば、暴力を許された存在、自由を奪うことを許された唯一の存在が国家というものです。
この国家=暴力装置という発言をして、これまで何人もの政治家が国民から非難を浴びてきました。しかし原理原則から言えば非難されるものではなく、重要で忘れてはならない視点なのです。

人は生まれながら自由であるはずです。人は自由に考え、行動する権利を持っています。しかし誰もが自由勝手に振る舞って権利ばかりを主張していたら、皆で安心して生活できません。そこで社会のルール(法律)ができました。

例えば交通ルール。皆が好き勝手に道路を通行するのではなく、日本では自動車は左側を走りましょう、というようなものです。これも一種の自由の制限です。

国家には、このように国民の自由を制限する権利があります。そしてそのルールを守れない国民に対しては、究極的には命を断つということもできる(つまり死刑です)のが国家です。(裏を返せば国家以外にはその権利はありません。)そしてルール違反した国民の自由を制限できるのが警察という存在です。

ですが、国家、国家といっても、国家という神様のような存在があるわけではありません。とうぜん誰かが国家を運営することになります。
その存在が王様(君主)である場合を王政(君主政)、民衆である場合を民主政と呼びます。この国家の運営を民主政で行うというのが「民主主義」です。

独裁政治であれば、独裁者という一人の人物がルール(法律)となりますが、それ以外では何らかの合議を経てルールがつくられます。ルールは秩序をつくりだしますが、人の行動の制限もします。そして、どんな形でルールが決められたにせよ、その人の自由を奪うことができるという国家のあり方は変わりません。王政が暴力的で、民主政が理性的などということではまったくありません。暴力的か理性的かは政治形態で決まることではなく、あくまでもそれを運営する「人」「思想」で決まります。

ですから、そうした国家の暴走がおこらないように国民が監視しなくてはなりません。

その監視のシステムとして、三権分立という制度が考え出されました。その一つが議会で、その議員を通じて私たちは権力の監視という行為を履行しているわけです。
選挙とはその議員を選ぶ行為ですから、私たちの自由を制限できる国家の暴走に歯止めをかけるのが、選挙の目的の大きな一つでしょう。
これは忘れてはならない視点です。

では、そこで選ばれた議員の役目というのは何でしょうか。

議会の役割は大きく2つあります。
1つは法律(制度)をつくること。もう1つは税金の使い方を考えることです。

先程から述べているように、法律・制度というのは国民が暮らしやすくなるためにつくられます。しかしあまりに法律が多くなってくると、かえって生活がしづらくなることもありますし、商売(経済活動)に支障をきたすこともあります。その場合は法律を変えて、制度を緩やかにする必要があります(これがいわゆる「規制緩和」です)。こうして、時代に合わせて法律・制度をつくったり無くしたりするのが議会の仕事の1つです。

国というのは、みんなでお金を出しあって住みやすいものにしていこう、という存在でもあります。どのように出し合うのか。身近なところでは
「働いて給料が入ったら、収入に応じてお金を出し合おう」(所得税、住民税)
「物を買ったら、その金額に上乗せしてお金を出し合おう」(消費税)
というような約束(法律)をつくって、お金を出し合うことにしています。

では、その集めたお金を何に使ったらいいでしょうか。

戦後、何もない時代には住むところが新たに必要でしたし、住むところがつくられて町ができれば、町と町を繋ぐことで経済活動が活発になります。そのために道路、橋、鉄道などがつくられていきました。つまり公共工事です。そういった何もない時代には公共工事にお金を使うということが優先されましたし、それによって国民生活も向上しました。

あるいは教育も大変重要です。教育とは「可能性の開拓」、つまりどんな人も各々の能力を生かして人生を送れるようにするという国民に対する投資です。しかしある時期まで義務教育に必要な教科書さえ、各家庭で買わなくてはいけないという時代がありました。所得の低い家庭が教科書も満足に買えなければ、教育の平等にも反することになります。ですから、今では教科書というのは各家庭で購入する必要はなく、その分のお金は国で出しています。

しかしこのような政策も、誰もが必要と感じるわけではありません。

道路はいらない、という人もいる。なかには、教科書がタダだから勉強を一生懸命やろうと思わないんだ、と主張する人がいるかもしれません。
なので、その必要性を考える。みんなで集めたお金には限りがあるのだから、何に使って、何に使わないのかを議論するのが議会であり、議員の役割です。

議員にそのような議論を任せるわけですから、そこは自分の考えとできる限り同じ人を選ぶことになります。

どんな制度が必要で、どんな制度が必要ないと考えているのか。
何にお金を使うべきだと考えているのか。

これはどちらも、私たちの生活に直結するものです。
どんな議員を議会に送り込むかで生活が変わってしまうというのが分かるのではないかと思います。
選挙とは、自分たちの生活を左右する本当に大事なものです。

憲法改正について

日本国憲法が施行70年を迎えた5月3日、安倍首相が憲法を改正し2020年の施行を目指すと発言しました。

憲法施行から70年を迎えた憲法記念日の3日、安倍総理大臣は、都内で開かれた憲法改正を目指す人たちの会合に寄せたビデオメッセージの中で、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と述べ、憲法を改正し、2020年の施行を目指す考えを示しました。

そして、安倍総理大臣は、具体的な改正項目として、「『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方は国民的な議論に値すると思う」と述べ、戦争の放棄などを定めた憲法9条に、自衛隊に関する条文を追加することをあげたほか、高等教育の無償化なども例示しました。

今後の憲法改正議論 公明党の動向も焦点の1つに(NHKニュース)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170504/k10010970241000.html

公明党として憲法改正についてはこれまで「加憲」という立場を表明してきました。これは日本国憲法の三原則である「国民主権」「基本的人権の尊重」「恒久平和主義」を堅持したうえで、時代に合わない、あるいは憲法制定当時に想定されていなかった課題があるのであれば、現憲法に条項を付け加えるというものです。

憲法第9条についても必要があれば条項を付け加えるべきとの見解をとっています。しかし直ちに改正が必要であるという立場ではありません。

憲法9条については、自衛隊の存在や国際貢献などを明記すべきとの議論があります。公明党は戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認を定めた9条の1項、2項は維持し、もし必要ならば新たな条文を追加するとの考え方です。ただし、昨年施行された平和安全法制によって、9条の下で日本を守るために必要な「自衛の措置」の範囲が明らかにされ、それによって当面の日本の安全は守られる体制が確保されました。また、自衛隊もすでに多くの国民から支持されており、当面の9条改正は必要ないと考えています。
(公明新聞5月1日付「施行70年 憲法とどう向き合うか/北側一雄公明党副代表に聞く」)

そのうえで持論になりますが、私は自衛隊の存在を憲法に明記することは必要だと考えます。

先の平和安全法制の議論で、アンケートに回答した憲法学者の9割以上が安保関連法案について「違憲」としたことが2015年7月11日付の朝日新聞で報道されました。しかし同じアンケートでは自衛隊についても6割以上が違憲としています。

(参考)安保法案学者アンケート
http://www.asahi.com/topics/word/安保法案学者アンケート.html

そもそも自衛隊を認めないのであれば、その行動の法制化も認められるわけはないでしょう。議論の前提が成り立っていないことが、議論が平行線をたどった大きな要因のひとつだったのではないでしょうか。

先の平和安全法制では集団的自衛権の行使について、憲法の範囲内で公明党がしっかり歯止めをかけたという自負はあります。学べば学ぶほど公明党の役割は大きかったと思います。ですので「昨年施行された平和安全法制によって、9条の下で日本を守るために必要な「自衛の措置」の範囲が明らかにされ、それによって当面の日本の安全は守られる体制が確保されました」というのは、その通りです。しかし一方で、その安全を守る自衛隊が「解釈」のもとにある事実は依然として変わっていません。

これまで長い間、自衛隊は憲法「解釈」のもとにその存在を位置づけられてきました。しかし、6割の学者が自衛隊を認めていないという憲法学の世界のように、解釈の問題で先に進めないことは決して健全ではありません。「自衛隊もすでに多くの国民から支持されて」いることは事実ですから、一般に解釈が常態化しているのであれば、明文化することも問題ないと考えます。

さらに今回、安倍首相はこの9条についても加憲の考え方での議論を提示しました。これについて5月3日の「第19回憲法フォーラム」シンポジウムに出席した遠山清彦衆議院議員(公明党)は、つぎのように述べました。

(安倍首相の発言について)公明党内ではこれから議論するが、自衛隊の皆さんは非常に重要な活動を国内外で行っている。きちんと(憲法に)明記していくという考え方は十分に理解できる。わが党の加憲アプローチに合う考え方であるということも留意したい。

公明・遠山清彦氏「首相の改憲メッセージは加憲アプローチに合う」 民間憲法臨調の公開フォーラム(1)(産経ニュース)
http://www.sankei.com/politics/news/170503/plt1705030085-n1.html

私もこの発言に賛成します。