2020(令和2)年2月29日(土)付 公明新聞4面
「誰も置き去りにしない」は、国連の持続可能な開発目標(SDGs(エスディージーズ))の基本理念として知られ、国際社会に定着しつつある規範の一つだ。公明党は、この理念を外交のみならず、内政の基軸に据えようと取り組んでいる。社会保障政策においてはどうあるべきか、現在進められている全世代型社会保障への評価も含め、慶應義塾大学経済学部の井手英策教授に見解を聞いた。
[背景]手取り収入97年で頭打ち 従来の弱者救済で良いのか
―「誰も置き去りにしない」とは、日本の社会保障政策でどんな意味を持つか。
井手 今、社会を見渡すと、生活に不安を抱えている人が少なくない。国際社会調査プログラムによると、「5年後は暮らしが良くなる」という問に賛成した日本人の割合は、調査対象17カ国の中で最低だった。また、内閣府の調査によると、悩みや不安を抱える人の割合が6割を超えている。厳しい状況だ。
経済が右肩上がりだった時代は、運悪く貧しい環境に置かれた一部の人たちを「弱者」とみなし、救いの手を差し伸べれば良かった。しかし今、困っているのは「特定の誰か」ではなく「みんな」だ。大勢の人が将来不安におびえる社会にあって、従来通りの弱者救済で良いのか、疑問だ。
特に、中間層(年収300万~800万円)からこぼれ落ちまいと必死で踏ん張る人たちは、なけなしの収入から払った税が弱者救済だけに用いられることを受け入れられるのか。かえって、彼らへの反発を募らせ、自己責任が叫ばれ、社会の亀裂を生むのではないか。
「誰も置き去りにしない」との理念は、「全民衆の最大幸福」という意味で日本の社会保障の核となる。
―将来不安の背景にあるものは。
井手 収入が減り、貯蓄もできなくなっている。加えて、人生100年時代と言われる長寿化は、それ自体は喜ばしくとも、貧困とセットになって老後の不安を増大させている。
具体的なデータを示したい。世帯の可処分所得(税引き後の手取り収入)は1997年で頭打ちとなり、今もそれを超えられない。また、税引き前の所得である「世帯収入」の分布状況を見ても、2018年で300万円未満が全体の34%、400万円未満が47%を占めた【グラフ参照】。
この間、共稼ぎ世帯数が専業主婦世帯数を明確に上回わった。つまり、稼ぎ手が1人から2人に増えたにもかかわらず、世帯収入が落ちたのだ。
こうした中、日銀が事務局を務める金融広報中央委員会の17年調査では、単身世帯の5割、2人以上世帯の3割が「貯蓄なし」と答えている。
―家計の金融資産の3分の2を60歳以上の世帯が保有する中、貯蓄ゼロは深刻だ。
井手 だがそれば「ありふれた危機」だ。要するに平成の約30年間で、私たち日本人は急速に貧しくなった。世界における日本の相対的な立場も、1人当たりGDP(国内総生産)が世界4位(1989年)から26位(2018年)へ転落している。
[課題]”備えは自己責任”に限界 現役世代の支援 先進国で最低水準
―低成長下での社会保障はどうあるべきか。
井手 先程の世帯収入の分布状況は、日本社会で多数派を占める中間層が低所得層化しつつある実態を示している。中間層は、現役世代を言い換えてもいい。
しかし日本の社会保障は、現役世代への支援が貧弱なのだ。高齢者向けと現役世代向けの社会保障給付の各割合(対GDP比)を見れば、一目瞭然だ。経済協力開発機構(OECD)諸国の中で、日本は高齢者向けに偏り過ぎており、現役世代向けは最低レベルだ【グラフ参照】。
―現役世代向けの給付を抑えられたからこそ、日本は一貫して”小さな政府”でいることができた。
井手 そうだ。そして、その政府を支えてきたのが自己責任のイデオロギーだ。つまり、人様に頼らず、勤労・倹約し、自助努力で生き延びることを美徳とする思想で、江戸時代から私たちの社会に深く根を張り、今も当たり前の前提となっている。
しかし、この前提が今後も通用するかは疑わしい。自己責任社会においては、政府のご厄介になることは恥ずかしいことだ。だから生活が苦しくても社会保障に頼ればいいという発想は生まれにくい。自己責任の呪縛が社会のあちこちで人を苦しめている。
―具体的には。
井手 例えば、生活保護の捕捉率(生活保護を利用する資格のある人のうち利用している人の割合)は、日本は15%程度だが、フランスは約9割、スウェーデンは約8割となっている。先進国では「生活保護は当然の権利」とみなされているが、日本では「生活保護は恥」と考える人が少なくない。
また、日本国内の自殺者数は1998年以降、14年連続で3万人を超えた。多かったのは40~60代の中高年男性だった。不況下で心を病んだり、経済的に追い込まれたというのが理由だ。
自己責任社会は行き詰まっている。現役世代が安心して暮らせるよう支援を手厚くすべきだ。この点、政府が全世代型社会保障を掲げ、教育無償化に乗り出したことは評価できるし、正しい方向だ。
[提案]医療や介護など無償化し 貯蓄ゼロでも不安ゼロに
―新しい福祉社会像は。
井手 僕が提案したいのは”貯蓄ゼロでも不安ゼロの社会”だ。具体的には、①ベーシック・サービス②ディーセント・ミニマム(品位ある保障)―の二つを政策の柱とし、人間の「生存」と「生活」を徹底的に保障する構想だ。
ベーシック・サービスは、医療や介護、育児、教育、障がい者福祉といった「サービス」を必要とする全ての個人に無償で提供する。所得制限は設けないため、弱者にとどまらず、中高所得層まで幅広く受益者にできる。何より、低所得者層が、気がねなく堂々とサービスを利用できる。
似た手法として、全ての個人に一定額の現金を給付するベーシック・インカムがあるが、ベーシック・サービスの方が、はるかに限られた財源で済む。なぜなら、保育所がタダだからといって高齢者は利用しないし、自由に歩行できる人は車いすを欲しがらないように、必要(ニーズ)があってのサービスだからだ。全員の命をお金で保障すると膨大な財源がいる。
―ディーセント・ミニマムとは。
井手 ベーシック・サービスにより、生活保護のうち「医療扶助」「教育扶助」「介護扶助」はいらなくなる。屈辱の領域を最小化し、食費や光熱費にあてる「生活扶助」、なぜか日本にない住宅手当を整え、品位ある生命の保障を行う。
―財源は。
井手 要するに、自己責任の下、貯蓄で不安に備えるか、税を通じて社会全体で備えるかだ。ベーシック・サービスの財源を消費税だけで賄うには16%程度まで引き上げる必要がある。さらに財政健全化までめざすなら、プラス3%。実際は、所得税の累進度を高めたり、相続税の引き上げなど、全体として税負担の公平性を図っていくことで、消費税率の引き上げ幅を抑えることもできる。
今の社会の最大の課題は、競争の輪の中に加われないままに人生が決まる人たちがいることだ。”貯蓄ゼロでも不安ゼロ”の社会が実現できれば、スタートラインがそろい、競争を通じて所得格差が生まれても許容できる。そういう社会を子どもたちに残したい。