児童手当50年にあたって普遍主義を考える

12月11日付の公明新聞土曜特集に「児童手当」について2人の識者にインタビューした記事が掲載されました。伺ったのは福井県立大学・名誉教授の北明美氏と、釧路公立大学経済学部・准教授の千田航氏です。

公明新聞2021/12/11

公明党の前身である公明政治連盟が1963年の第3回全国大会で掲げた児童手当制度の新設は、その9年後の1972年に第3子以降に月額3,000円を支給する制度として開始されました。それから来年1月で50年を経ます。

折しも先の衆院選で公明党が掲げた18才以下の子どもに所得制限なしで一律10万円を給付する「未来応援給付」が、その後の与党内で「所得制限あり」「5万円2回の分割給付」さらに「2回目はクーポンとして」という実施方法が示されたことに対して世論の大きな賛否がニュースなどでも連日報道されています。

こうした中で子どもを持つ家庭に恒常的に支給される「児童手当」制度について、あらためてその目的を整理する必要があると考え、制度の評価と今後のあり方について識者に聞いたのが今回の記事です。

以下はこの記事での両者の考えに対する私の見解です。

子どもを育てる場として家庭と社会の2つがあり、そのどちらでも国民全体でコストを負担するという考えが児童手当制度の前提になるのだと思います。そのもとに、家庭での子育てに対しては政府が口出しすべきではないので、その場合は使い途を限定しない「現金」での給付となり、社会共通のコストは個々がサービスを「購入」するのではなく、必要なときに無償でアクセスできるようにするというのが基本的な整理になるでしょう。

この特集もその視点で分けられています。つまり北名誉教授の論点は家庭面から論じられていて、千田准教授は社会的な面について言及されています。

そこで家庭への給付を考えれば、どの所得階層にとっても子育てが「経済的ペナルティー」にならないことが重要だという認識で政策を捉えるべきであり、だからこそ所得制限は馴染まないというのが北名誉教授の主張です。

それに対して千田准教授は社会全体で普遍的に子育てを捉える必要から所得制限はすべきではないと論じています。この中で「普遍主義を守っていくことが、社会保障の信頼と強化につながっていく」として金額の多寡よりも普遍主義を優先すべきと主張している点が重要です。

普遍主義とは、受給できる権利をある立場の人による審査や裁量で決められることなく、すべての人に提供されるとするものです。これについてはあらためて論じたいと思いますが、この普遍主義を公明党として今後さらに強く打ち出していかなければならないと考えます。(2021/12/11)

これからの時代の「新しい社会保障政策」(月刊「公明」12月号)

公明党がこれからベーシック・サービスを進めていくにあたって、このたび出版された月刊「公明」12月号にとても重要なお二人の寄稿が掲載されました。一人は、井手英策先生との共著もある藤田孝典氏。もう一人は、井手英策先生の師である神野直彦先生です。

まずは藤田孝典氏の『これからの時代の「新しい社会保障政策」』と題した提言を紹介したいと思います。

この内容は、これからベーシック・サービスについて踏まえるべき重要な考え方を示したものです。

ベーシック・サービスとはその名の通り、住まい・医療・介護・教育・保育といった『人間が人間らしく生きていくために必要となる』もの、つまり生きるための「基礎」となるサービスを無償化(これを藤田氏は提言の中で『脱商品化』と呼んでいます)したり、現金給付を行うという政策です。

その『必要』をどう考えるのか。

つまり範囲と水準についての考え方が重要になります。これをしっかり議論しないと、サービスの名のもとに際限のない要求と、際限のないバラマキにも繋がってしまいかねません。

一方でこの『必要』も、時代によって変化するものです。

たとえば不妊治療。公明党が現在進めているこれへの保険適用も、これまで一部の人にとってのニーズだったものが、現在では少子化対策という社会政策も含めた多くの人のニーズとなっていることで推進しているわけです。つまり、ニーズというものはたえず変化するという認識が大切です。

そうしたことから、提言で藤田氏は『ベーシック・サービスの無償化、低負担化による「脱商品化」政策を進める際には、丁寧に市民生活を分析しなければならない』と述べています。

そのうえで藤田氏は、このベーシック・サービスとされるものの中に「通信」を挙げています。僕は、これは重要な指摘だと思います。

公明党がこれまで推進し、菅総理も政権の出発から掲げた携帯電話料金値下げは、家計負担の軽減として議論されています。たしかに低所得世帯ほど家計に占める携帯電話料金の割合は大きいのが事実です。(付け加えば、僕は日ごろいろんな方に接して、低所得世帯ほど格安SIMを使っていないのでは、という感想を持っています。)
ただこの議論について、僕は家計負担という面にとどまるべきではないと考えます。携帯電話は社会的に弱い立場にある方が、様々な支援に繋がるための重要なインフラであるという視点も重要だと思います。事情によっては、支援者がご家庭に訪問できない場合もあります。そうしたときに、携帯電話は支援者が当人と繋がるための唯一の糸になりますが、その糸が料金滞納によって切れてしまうと、支援との繋がりも切れてしまう。

…少し私感が入ってしまいましたが、つまりそのような時代による国民共通のニーズをどう捉えるか。藤田氏は今回の提言で『新しい生活保障政策であるベーシック・サービスの射程を定め、順次、脱商品化に取り組む姿勢を打ち出していただきたい』と期待を寄せています。

ベーシック・サービスの財源論と同じくらい重要なのが、このベーシック・ニーズの議論です。

赤松正雄 元・衆議院議員のブログより

赤松正雄・元衆議院議員のブログがBLOGOSに掲載されました。

BLOGOS「コロナ禍とベーシックサービス導入への胎動」

赤松さんは公明党から新進党、そして公明党の再結党という激動の時代のなかで党の理論的支柱を担った方です。その立場から、ときに現在の党に対して辛辣な意見を述べられることも少なくありません。

今回のブログでも、公明党が自民党と連立政権を組んだことで、『得たものは多い 』が『失ったものも少なくない』と指摘し、『自民党の公明党化を目指してきたのに、気がついたら公明党の自民党化が進んでいたと言われないでしょうか』とこれまでの懸念を表明しています。

しかし今回のブログでは『ところが』と続け、この度の公明党全国大会で、党としてベーシック・サービス導入の本格的検討を表明したことに対して『快哉を叫びました』と大きく評価されています。

『税金のお話』

MMTという理論があります。すごく簡単にいうと、自国建通貨はいくら発行しても問題ないから国は借金返済にお金を回すべきではなく、そのお金を市中に流すことによって経済を回復し活性化させるべきだ、とする考えです。世界では賛否の「否」の方が大多数だと思うですが、一方で日本では支持している人がひたひたと広がっている印象があります。

その理由を、僕は日本人のマインドに合っているからなのでは、と分析しています。

それは税に対する考え方です。

日本では年貢から始まって、租税とはお上に納めるものであり、その意識は今も変わっていないと思います。MMTの税に対する考え方も、それが通貨の価値をつくるものであろうが、インフレ調整であろうが、悪い行いを抑制する手段であろうが、お上に納めるものということに変わりがない。そこには税を各々が負担しあいながら協同して社会をつくろうという思想はないように見える。

仮にMMTが正しいとしても、僕が賛成できない一番の理由はそこにあります。

シェアしたのは #井手英策 先生が子どもたちに向けて行った「税金のお話」。この中で先生が語りかけます。
『今、生活が苦しくてお金をためられない。将来のことが不安。こまっている人を助けようとも思えない、関心がもてない。国のことも政治家も友だちも、人間そのものを信じられない。これらの悲しいお話と、税金がきらいだという気もちと、どう関係するのだろう。そのことについて考えてほしいんだ。』

僕がここで何度も井手先生のことを書くのは、僕が子どもたちに残したい日本の姿が井手先生の言葉の中にあるから。

『運が悪かっただけでしんどい一生を背負う人たちがたくさんいる。僕はそんな社会を絶対にゆるせない。オレが幸せなのは、運がいいからだ。それなら、運が悪かったというだけで悲しい思いをしなくてはいけない人がいるなんて、あまりにも不平等じゃないか。僕は運に左右されない世の中を作るためにがんばる。』

井手先生の人となりも伝わる講演です。ぜひご一読を。

公明党が目指す新たな社会像 ― ベーシック・サービス論を本格的に検討

昨日開催された2年に一度の公明党全国大会。そこでは公明党が目指す「新たな社会像」が示されました。ここで特筆すべきは、慶應義塾大学経済学部教授・井手英策先生の理論である「ベーシック・サービス」に言及したことです。

登壇した石井啓一新幹事長は、「コロナ禍で中間層も含む全ての人を受益者とする新たなセーフティネットの整備が求められるなか、注目されるのが、全世代型社会保障の考え方をさらに推し進めた『ベーシック・サービス』論です。医療や介護、育児、教育、障がい者福祉、住まいなど、人間が生きていく上で不可欠な基本的サービスを無償化をし、『弱者を助ける制度』から『弱者を生まない社会』へと福祉の裾野を大きく広げるものです。」と述べ、次いで「ベーシック・サービス論を本格的に検討する場を党内に設け、給付と負担の両面から積極的に議論を行ってまいりたい」と表明しました。

ここで言及されたように、「ベーシック・サービス」とは「人間が生きていく上で不可欠な基本的サービスを無償化」するというものです。

これを語るときには、どんなサービスが無償化されるのかという“出”の話がどうしても注目されますが、この財源としての税をどのように考えるかという“入”の議論がじつは一番重要です。
税制は国によって、また時代によって違います。これは、税に対する思想の違いがあるからです。

そうした税に対する考え方を踏まえずに、テクニック論ばかりが目立つのが今の日本での議論ではないでしょうか。「消費税を5%に」「いや0%だ」といった議論も、税に対する思想がなければバナナの叩き売りと一緒です。

今回、党としてベーシック・サービス論を本格的に検討していくにあたり、「給付と負担の両面から積極的に議論」としている点は重要です。ベーシック・サービスの財源としての税に対する考え方も、井手英策先生は理論として同時に示しています。理解を深めるための近著としては「幸福の増税論」(岩波新書)がおすすめです。

「ベーシック・サービス」で連帯の社会を

「ベーシック・サービス」

今日の公明新聞一面に掲載された井手英策先生のこの理論は今後、公明党の政策の「核」となっていくでしょう。

今回のコロナ禍で一律10万円の特別定額給付金が決定した際、公明党・山口代表がこれを政治からの「連帯のメッセージ」と発言しました。今日の井手先生のインタビュー記事にも「連帯」という言葉が大きく文字にされていますが、公明党がベーシック・サービスを政策の柱として掲げるべき理由がこの「連帯」にあります。

今年(令和2年)1月に行われた内閣府の「社会意識に関する世論調査」が公表されています。それによると、「社会の現状に対する認識」として「連帯感がある」としている割合は6.4%に留まっている一方で、「現在の世相」(マイナスイメージ)について「連帯感に乏しい」としているのは26.9%と、4人に1人の割合にあるという現状です。まさに今、多くの国民が「連帯」を求めています。

この連帯感がないことが租税意識の低さ、つまり税への拒否感に繋がっていると分析しているのが、東京大学名誉教授で経済学者の神野直彦先生です。(神野直彦先生は井手英策先生の師でもあります。)

神野直彦先生は先進各国の租税負担と経済的パフォーマンスを調査したうえで、『租税負担率が高いと格差や貧困を抑えることができ、経済成長すら可能になると表現してもいいすぎではな』く、『経済的要因だけでなく、社会的要因も考慮した幸福度という観点からみても、租税負担率が高いほうが幸福度が高い傾向があるとすら指摘できる』としています。

翻って日本の租税負担率はOECD加盟32カ国の中でも著しく低いのが現状です。それに対して『日本で租税負担が低い理由については、国民が政府を信用していない点が必ずあげられます。しかし、租税負担が高い国であるスウェーデンの世論調査をみても、国民は政府を信用しているわけではありません。重要な点は、国民同士がお互いに信じ合っているかどうかです。つまり、「私達」という仲間意識が存在して、「公」の意識が形成されているか否かが、決定的に重要なのだと思います』と論じています。

さらに『租税負担の高い国は、他の人々を信頼する国だということも読み取れ』るとの分析をする一方、日本社会では人を信用するよりも先に『子供の頃から競争原理を教え込まれ』てきたことで、『他の人びとへの不信感は形成されて』きたと指摘します。その結果『「私達」という仲間意識』が生まれず『「公」という認識』が形成されてこなかったことから、日本社会では『お互いに負担し合う租税意識が形成されず、租税負担は高まらない』と結論づけています。

(『』は「税金 常識のウソ」(神野直彦著・文春新書)より引用)

これは裏を返せば、税を通じて仲間や公の意識も形成できるということでもあります。

ベーシック・サービスは公明新聞の記事の中で述べられているように、「税」を財源とします。国民が税金を出し合うことによって支え合う社会をつくる、というのがベーシック・サービスの根底の考え方です。

今日の記事の最後に、井手先生は『これまでは、経済を成長させ、自分の力で稼ぎ、自己責任で生きていけたが、危機の時代は無理だ。社会全体が連帯する新たな仕組みが求められている』と述べています。

まさに「社会全体が連帯する新たな仕組み」をつくることこそが、今の政治に最も求められていると確信しています。その仕組みこそが「ベーシック・サービス」です。

【読書録】「欲望の経済を終わらせる」井手英策(2020/06/05)


今月(6月)5日に井手英策先生の新著『欲望の経済を終わらせる』(インターナショナル新書)が発刊されました。

その帯にある「新自由主義徹底検証!」。

今、「新自由主義」は日本のみならず世界中で政治あるいは時代の槍玉に挙げられており、じつにタイムリーな内容となっています。ところが新自由主義と言われても、なんだか漠然としているのも事実。新自由主義とはなんでしょうか。なぜ批判を浴びているのでしょうか。

私たちが経済の仕組みとしている「資本主義」は、経済的自由が原則となっています。しかし独占などの不公平の是正や、経済不況や恐慌における社会の回復のために、その経済活動においては国家の介入も必要とされてきました。

この介入の度合いが極限まで達すると社会主義となるわけですが、それはさておき、資本主義のなかで国家がどの程度経済活動に介入すべきかというのが、これまでの人類の歴史における最大の課題であったといっても過言ではないでしょう。

この国家の介入というのは、2つのかたちで行われます。一つは「規制」、もう一つが「再分配」です。このとき介入の度合いが高いのを「大きな政府」、低いのを「小さな政府」と言います。

長く日本では、公的なものとして規制されてきたものを「民営化」し、国の再分配機能である財政支出を「削減」して「小さな政府」を指向してきました。

公的な介入や支えでなく、国民個々人の力量で社会生活を作り上げていくべきだ、としてきたわけです。これを「新自由主義」と称します。

小さな政府を望んだ理由は、それこそが経済成長に繋がると考えたからです。しかし経済が思うように成長しないなかで、この新自由主義に疑問が呈されてきました。「個々人の力量」は「自己責任」とされ、経済格差が生きる格差となっていきました。

そこにこの新型コロナウイルスのパンデミックが追い打ちをかけました。想像もしなかった経済急変により自己責任社会の限界がはっきりしたということで、新自由主義社会が今、大きく批判されているわけです。

しかし井手英策先生が今回の著作で一番明らかにしたかったのは、新自由主義の欠陥ではありません。

この新自由主義を推し進めたのが小泉純一郎であり、竹中平蔵であり、自民党政権などということも、世間ではまことしやかに言われています。それは本当なのか。もしそうであるなら、なぜその政治体制が(選挙という形を通して)これまで支持されてきたのか。

そういった分析なくしては、次に違う政治・経済思想が出てきても、結局私たちはいつか来た道を辿ることになってしまう。そうであるなら今、新自由主義の土壌をつくった日本の歩みを徹底検証しなくてはならない、ということです。

そしてその反省をもって、次の社会のあり方を語るのが本書です。

現在行われている都知事選でも「反・新自由主義」を主張する声が聞かれるように、ポスト・コロナの社会は新自由主義からの転換が中心的な議論になるはずです。

その前提の知識として、『欲望の経済を終わらせる』は是非読むべき一書だと思います。

月刊公明7月号『税を財源に実現する「頼り合える社会」』 井手英策・慶應義塾大学教授

井手英策先生の寄稿が月刊「公明」7 月号に掲載されました。同誌への掲載は 2013 年 11 月号以来じつに 7年ぶりです。

井手先生のこれまでの寄稿(今年 の月刊誌「潮」3 月号と2/29 付公明新聞「土曜特集」)は、自身の理論や質問に対する見解を述べるということが中心でした。今回の寄稿が特徴的なのは「公明党のビジョンを進化させるための鍵」として提言していることです。

特定の誰かではなく、すべての人たちを受益者にすることこそが、公明党の求める「全民衆の最大幸福」「個人の幸福と社会の繁栄の一致」を実現することになるのではないか。

そう井手先生は指摘し、そして党に対して問いかけます。『公明党が重視してきた「弱者の救済」を「万人の保障」に変えられるか』。

「万人の保障」の大きな鍵の一つが、支援に所得制限を設けないことです。

たとえば公明党が今回強く主張した「一律 10 万円給付」。所得制限なしで行ったこの事業は、僕は大きな社会体験だったと思っています。国民全員が 10 万円を受け取れたことで、高所得者層が受け取ることの批判もほとんどなく、これまでの支援で必ず出てきた「私だって苦しいのに」という声も叫ばれることはありませんでした。つまりサービスによる分断が生まれなかったということです。

裏を返せば、これまでの支援の仕方である「弱者」という線引きをした救済では、サービスを受けられた人と受けられない人の間での分断が避けられないということでもあります。

そうであるからこそ、井手先生は誰もが生きていくために必要とする支援に所得制限を設けないことを主張し、すべての人を保障する「ベーシック・サービス」論を展開しています。

ベーシック・サービスとは所得に関係なく受けられるものです。井手先生が昨年上梓された著書「いまこそ税と社会保障の話をしよう」の中にそれを表した一言があります。

『僕たちは所得ごときで人間の扱いを変えません』

#国民投票法改正案に抗議します について

「検察庁法改正案」については、公明党としても定年延長の基準などが明確に示せていない状況では、国民の理解が得られないということで、今国会での採決を見送ることになりました。

検察庁法改正案 採決見送り(2020/5/19 公明新聞)
https://www.komei.or.jp/komeinews/p98295/

ツイッターで#(ハッシュタグ)をつけて広がった検察庁法改正案についての世論ですが、ここで新たに「#国民投票法改正案に抗議します」という意見が広がっているようです。

「安倍政権はコロナを利用して憲法改正を企んでいる!」ということで広がりつつあるようですが、「それはまったくの間違いです!」ということをお伝えしたいと思います。

まず、国民投票法改正案(正式には「日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法律案」)が今国会に提出された経緯です。

この改正案は、2018年6月27日に自民、公明、日本維新の会、希望の党の4党で提出しました。

国民投票法改正案を提出(2018/6/28 公明新聞)
https://www.komei.or.jp/komeinews/p5123/

ところがその後、野党の審議拒否で法案審議が一度も行われないまま継続審議となっていて、今国会に再提出されたものです。

つまり、国民の関心がコロナに向いているからその隙に法案を提出して通してしまおう、というのではなく、2年前から審議が続いているわけです。

ではその改正案の内容は、具体的にどういうものでしょうか。

通常の選挙をどのように行うかは「公職選挙法」で決められています。しかし、憲法改正を行う場合の国民投票は、この公職選挙法ではなく「国民投票法」にのっとって行われることになります。

国民投票法改正案が提出されたのは2018年と言いましたが、その2年前の2016年に公職選挙法が改正されました。

このときの公職選挙法改正で、駅やショッピングセンターに共通投票所を設けられるようになり、また期日前投票所の投票時間も地域の実情に応じて繰り上げや繰り下げができるようになりました。さらに、投票所に投票人(親)と入ることができる子どもの範囲(年齢)が拡大されたのもこの法改正によるものです。

このときの公職選挙法改正による投票環境の整備を、国民投票法でも行うのが今回の改正案ということです。

憲法改正の是非を国民に問う際には、その投票を国民投票法にのっとって行うことになります。では、国民投票法が改正されれば、憲法も改正になるのでしょうか。

国民投票法の改正内容を知っていただければお分かりのように、憲法改正とはまったく別の話しです。

そもそも国民投票の際に国民が投票しやすい環境を整えるのが、今回の法律改正の目的です。つまり、憲法改正反対の人たちにとっても意思が示しやすくなるわけです。

今回の 「#国民投票法改正案に抗議します」。

この法律案の内容についての反対意見であれば、当然聞くべきです。しかし、多くは誤解であると思います。さらに申し上げれば、「日本が悪い方向に行ってはいけない」という純粋な思いを、与党のイメージダウンを狙っている人たちに利用されてしまうことを危惧します。

尚、この国民投票法改正案については、衆議院のホームページに「法律案要綱」が掲載されています。

日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法律案要綱
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/youkou/g19605042.htm

比較的分かりやすく書かれてはいますが、それでもなかなか読むのは気が引けると思います。

これについて、自由民主党の山本拓衆議院議員(公明党でなくてすみません)のホームページで詳しく解説されています。

国民投票法改正案(自民党衆議院議員山本拓)
http://yamamototaku.jp/article/kokumin_touhyou/

さらに詳しく知りたい方は、ぜひ参考にしてください。

2020年5月19日

そういうとこやぞ!共産党

「そういうとこやぞ!」という、キム兄みたいな話しなんですが…

僕が個人的におつき合いしている共産党の議員の人たちは、人あたりも良いし、真面目です。ですから、共産党だから何でもダメ!なんて思っていません。良いところはちゃんと認めようと常日頃から心がけています。

ところがマス(集団)になると、どうしてこうなってしまうのか…

現在、立川市内で共産党のチラシが配布されているようです。

それ自体は政治活動なので何か言うものではありませんが、その内容が「公明党ができないことを共産党がやった」というものなので、ここは明確にしておかなくてはなりません。

そのチラシの内容についてもう少し詳しく申し上げると、立川市の今年度の国民健康保険料が値下げ(昨年度からの据え置き)になったのですが、それが共産党の成果というわけです。
果たして、事実はどうでしょうか。

最新の「広報たちかわ」(5月10日号)に「立川の国保」(同)が折り込まれています。その1面左下の「保険料等の引き下げ」にこんなふうに書いてあります。

『新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う市内の景気経済や市民生活等への影響に鑑み、保険料率と負荷限度額を改正前の平成31年度水準へ引き下げました。』

普通に読めば「ふーん、まぁ良かったな」というくらいの内容かもしれませんが、これを行政が行えるようにしたのは、私たち公明党です。いえいえ、単なる自画自賛でも拡大解釈でもありません。ちょっと長くなりますが、経緯を説明させてください。

令和2年度の国民健康保険料は、これまで市長の諮問で設置されている「立川市国民健康保険運営協議会」で長く審議を続けてきたものです。

立川市国民健康保険運営協議会は、被保険者つまり国民健康保険に加入している市民の代表と、他の健康保険の運営に携わっている方、さらに医療従事者の代表に、市議会からも3名の議員が入って15名の委員で構成されています。今回は市議会から自由民主党、共産党、そして公明党の3名が委員となりました。公明党の委員は僕です。

健康保険というのは、保険に加入している人たちでお互いにお金を出し合って、病気や怪我のときに支え合う「互助」が中心です。

ご承知の通り、高齢化社会になって医療費は年々増加しています。医療費が増加していけば、出し合うお金も増やさなくてはなりません。

そこで立川市の国民健康保険料について、運営協議会で今後の値上げの是非を長く審議してきました。

その議論で、共産党はもとより国民健康保険料の値上げは反対なので、それを一貫して主張されていました。ただ、それ以外の14名の委員は、国民健康保険の財政を考えたときには値上げはやむを得ない、という意見で、今後4年間で段階的に保険料を値上げする方向性で話は進みました。

その中で、僕は公明党の議員として「もしも」の事態に備えることを主張しました。

その内容は、値上げはやむを得ないが、どんな事態になっても保険料が上がっていくのは市民生活に影響が大きい。リーマン・ショック級の経済的な急変があった場合には、値上げを立ち止まるという制度設計をするべきだ、というものです。

<議事録(共にK委員が僕です)>
◯平成30年度第5回立川市国民健康保険運営協議会議事録
(平成30年12月26日(水))
https://www.city.tachikawa.lg.jp/hokennenkin/kurashi/kurashikaigi/kokuhoune/h30/documents/201805_gijiroku.pdf
◯平成31年度第4回立川市国民健康保険運営協議会議事録
(令和元年12月26日(木))
https://www.city.tachikawa.lg.jp/hokennenkin/kurashi/kurashikaigi/kokuhoune/h31/documents/201904_gijiroku.pdf

その主張が最終的に市長への答申に盛り込まれました。

◯立川市国民健康保険の保険料について(答申)
(令和2年1月16日(木))
https://www.city.tachikawa.lg.jp/hokennenkin/kurashi/kurashikaigi/kokuhoune/h31/documents/h31_05_toushin.pdf

もとよりこの審議を行っているときに、現在の新型コロナウイルスの感染拡大と経済への影響を予想できたわけではありません。しかし「いざ」というときの規定を盛り込んだことで、行政にそれを根拠(それが先の広報誌に記載された『市内の景気経済や市民生活等への影響に鑑み』という一文です)として現実の事態の対応をさせることができたわけです。

行政を動かすというのは、そういうことです。

残念ながらその審議の過程で、共産党の議員からは「値上げ反対」以外の意見は聞くことができませんでした。確かに共産党は議会で「値上げをやめるべき」とも発言されました。値上げ中止の修正案も出されました。

しかし、主張するだけでは物事は動きません。実際に皆さんも、会社など組織のなかで、言うだけで主張が通るなどと思っていないと思います。物事を動かすために、様々な努力をしているはずです。ところが政治になると、言えばやったことになる、というようなことが本当に多い。そういうところが政治不信、ひいては政治が馬鹿にされる原因に繋がっていると思います。

冒頭にも申し上げたように、共産党の議員の方たちも個人としては良い人です。でも全体になると、どうしても事実を曲げてしまう癖がある。
僕たちが共産党をどうしても受け入れられないのは「そういうとこやぞ!」